自分を好きになるために

思えば自分の容姿について意識しはじめたのは、幼稚園児の頃だ。まあ、今でも中身は幼稚園児並みの知能だろ(←コラw)っていうツッコミは置いといて、そのきっかけはきっとおゆうぎ会だろう。

おゆうぎ会では白雪姫の劇をやることになったのだが、私は運悪く、くじ引きで白雪姫の役を引き当ててしまった。当時の記憶はあまり定かではない。歌や音楽に合わせて演技するのは楽しかったような気はするが、目立つのが嫌だったと感じたのは確かだ。その頃からきっと自分に自信がなかった。

 

物心ついた時から、親からカメラを向けられることが心底嫌だった。親からしたら、幼い頃の私の記録を撮っておきたかったのだろうが、撮られるのを嫌がって逃げたり顔を隠す私に対して呆れながらも、家族で旅行に行く度に私をビデオに映そうとしてきた。私はビデオに映る自分の姿など見たくなかった。特に、7歳の時に七五三の衣装を着させられて外を歩かされた時は、周りの人たちの視線が痛かった。目立ちたくなかった。その時の私は終始不機嫌で、写真を撮られそうになるとひどく抵抗した。

 

なぜここまで、幸い容姿でからかわれたことがなかった私に、幼少期に自分が目立ったり写真を撮られることに抵抗があったのか自分でもよくわからないが、恐らく一つ目は、その頃から自分の容姿にコンプレックスがあったからだ。それは、前歯が大きくて収まりきらず出っ歯であったことと、鼻先が低くて鼻の穴が見えている豚鼻、一重まぶただと思う。二つ目は、小学生の頃から、なんとなく容姿の良し悪しによって、クラスの同級生の態度が変わるような気がしていたからだ。

 

そもそも容姿の美醜など人の感じ方によって違うし、きっと私や世間の人が美しいと思う顔も、メディアで美しいと持て囃されてる芸能人を見てそれが美しい顔なのだと刷り込まれているに過ぎないとは今こそは理解しているが、私はその頃から容姿の美醜に敏感だった。(自分に対しても、周りに対しても)

 

「個性」、「ありのままの自分を愛そう」、「美しくなくてもいい」なんて思うことは、私には到底思えなかった。そう思えたなら良かった。他人から見て美しくなかったとしても、自分の顔に満足できていたならそれでよかった。しかし残念ながら、そう思えるような自己肯定感は身に付けることができなかった。鏡を見る度に、コンプレックスが気になって嫌な気持ちになる。そんな私は、コンプレックスを消していくことを選んだ。

 

幸い、親の勧めで歯列矯正はさせてもらえることができた。メイクやファッションなど、最低限自分を好きになる努力はしたつもりだ。化粧に興味を持って間もない頃は、1時間くらいかけて付けまつげを試してみたり、アイプチやアイテープで二重を作ったりしてみたけど、不器用なせいで不自然になったりうまくいかなかった。その結果、今までの自分の努力では限界があることを知った私は、整形を決意した。

 

最初は手軽にできそうな二重にすることから始めることにした。(舐めてたわけじゃないよ!ちゃんと情報収集したよ!)失敗の不安もあったが、二重になれるという期待の前では、期待が勝った。二重の整形には埋没法と切開法というものがあり、所謂メスを入れない"プチ整形"といわれる埋没法を受けた。手術自体は、先生が手際よく瞼の裏を縫っていって、あっけなく短時間で終わった。痛みに関して言えば、部分麻酔にプラス料金で笑気麻酔を付けることができたのだが、自分は痛みに強いと過信してケチって付けなかったことを後悔した。手術中はライトがひたすら眩しくてものすごい激痛で死ぬかと思った。もう二度とやりたくない(泣)

 

手術後はしばらく腫れててちょっと痛かったけど、何よりも二重になったことがすごく嬉しくて腫れがひくのが楽しみでそんなことどうでも良かった。手術の結果は、ナチュラルに仕上がって自分的には満足だった。きっと運が良かった。整形は博打だからね…。

 

整形して二重になってから、メイクをするのが楽しくなった。前よりも自分に自信がついた。やって良かったと思う。まあでも、一回整形しだすと、どんどん粗探ししてやりたい箇所が増えるのは本当だ。。今は、鼻を整形するためにお金を貯めている。それはずっと前からやると決めてたことだからいいんだけど。

 

ただ一つ心配なのは、鼻を整形して成功したとして、それでも自分の顔に満足いかない場合だ。多分、私の性格上?鼻が成功したとしても一時的には喜ぶけど、自己肯定感は低いままでどうにもならないんじゃないかと。自分の嫌いな自分を認めてあげられない限り、容姿に対する執着は収まらないと思う。

 

私は、整形して美しくなることが私にとっての最終目的ではないと思ってる。橋本環奈にはなれないし、限界があることはわかる。だけどできる限りのことをして自分の満足できる自分になりたい。少しでも自分を好きになって自信を持てるようになりたい。要は自己満。

 

長くなったけど、最後に

「ありのままの自分を愛せよ」というコメントに対して

「生まれ持った肉体は、所詮遺伝子のお着せでしかない。それをありのままの自分だと押し付けられるのはおかしい。」「自分で選ぶことのできない生まれ持った肉体よりも、ファッションの方がずっとその人の魂に近い」

 

私の崇拝しているファッションクリエイターのmillnaさんが、YouTubeで発信している動画の中に、このような言葉があった。(うろ覚えで書いたので間違ってたらすみません)

ありのままの自分を愛せない私にとって、ありのままを愛せなくてもいいんだと自分が肯定されたような気がした。millnaさんの言葉にはよく救われている。

 

みんなが好きなことだけをして、好きな格好や外見で自分らしい人生を送れればいいのにね( ◠‿◠ )ワイはお金稼ぎがんばります。

 

@こんなに長くてクソみたいな文章読んでくれた方

LOVE

 

おすすめのYouTuber

最近知ったおすすめのYouTuberを紹介したいと思います。

DOLL GAL millnaというチャンネルです。

 

最初見た時は、正直「うわ、またなんか変わった芸風?のYouTuberか〜」という感想しかなかったのですが、見ていくうちにだんだんと彼女の魅力に惹かれていって、今では大好きになりました。

自分の感性を信じて可愛いと思ったものを追求していく姿勢、自分の信念に従った考え方がとても尊敬します。

 

特に刺さったのがこれです。

 

私はずっと社会のレールから外れてきてその度に普通じゃないんだ、社会不適合で生きる価値がないんだと思ってきましたが、ミルナさんが動画で言っていた

 

「こんなに世界って自由でこんなに何やっても良くて」

「いい大学を出て、いい会社に入って、結婚して子供を持つことだけが幸せだって思ってたんですよ」

「でもそれは違っていて何やっても“それがあなたでいい”それが社会だったんだって私学校出て初めて気づいたんですよ」

 

という言葉で、学校にいた時は同調圧力でほんとに窮屈だったけど卒業したら自由だなぁと思ってたんですけど改めてそう実感できたし、かなり気持ち的に救われました。

 

更に

この動画で「他人のdisで傷付いた」と言っていて、ミルナさんは自分に自信があって信念を貫いていて他人に何と言われようと気にしないような強い方なんだろうなと思っていましたが、ミルナさんでも他人からのdisで傷付いたりすることがあるのだな、と逆に親近感?が湧いたし共感しました。それでも挫けずに自己表現をされていることが素晴らしいです。

 

私は自分に自信がなくて、考え方も何もかも自分を持っていなくて、その場の空気とかに流されて不本意な言動を取って自己嫌悪したりの繰り返しで嫌になります。なのでキョロキョロ周りみて迎合するような自分と比べて、周りになんと言われようと自分の信念に従って動く人は尊敬するしカッコいいなと思います。自分もいつかそうなれたらいいなと思います。

どうしてこうなった

私は生きるのが辛い。なぜなら社会に適応できなかったから。普通にはなれなかったから。そして適応できないなりに何か自分が好きなものをやり続けたり、向いてるものを見つけたりもできていないから。

 

私はずっとできないなりになんとか社会に適応できるように頑張ってきた。高校はなんとか通信制の高校を卒業した。でも、前の高校を辞めて通信制に行ったことは未だに後悔してる。その時はやむを得なかったが、そこで本当に、「ああ、私は普通じゃないんだ」っていうことが決定的なことになってしまったから。辞めた直後は本当に将来どうするんだろうって、絶望で毎日泣いてたし眠れなかった。朝まで眠れなくて起きれないので暫く学校にも行けなかった。そして未だにFacebookを開いて同窓会の投稿を見て、「私も本当はここにいたはずだったのに」と思ってまた辛くなる。楽しそうな大学生活が次々とシェアされていく様子は、もう見ていられなくて退会した。

 

大学に行きたかったけど親は私がやる気ないからFランにしか入れないと思ったのか反対してきたので結局とりあえず職に就こうと思い、専門を卒業して病院の事務に就職した。就活は辛かった。自分には何も良いところがないのに、むしろ雇ってもデメリットしかないのに自分をアピールなんて。嘘ついてやりすごすしかなかった。

 

その仕事は自分にとって全てが苦痛だった。別に怒鳴られたとか毎回残業で帰れないとかそういうことはなかったが、やはり単純作業をこなすこと、給料低いのに見合わない責任を要求されること、狭い空間で毎日先輩たちの言う悪口を嫌でも聞かなければいけないこと、全てが自分には無理だった。全てになんの意義も見出せなかった。仕事中は生きる意味とか人はなんで生きてるんだろうとか意味不明なこと何時間も考えてた。それしか考えられなかった。

 

しばらく経ってから毎日自殺したいと思うようになって電車に飛び込むシュミレーションずーっとしてて、さすがにまずいかと思って精神科に駆け込んだ。本当かどうかは分からないけどADHDとうつと診断された。薬を貰って最初は効果が分かったがすぐに慣れてしまい気休めにしかならなかった。

 

そしてなんとか就いた仕事も半年も経たないうちにやめた。

ああ、世の中の人たちはこの苦痛を毎日耐えて生きてるんだと思った。当たり前だと思ってたけど仕事してる人ってみんなすごいわ。尊敬した。だって毎朝満員電車に揺られてこれから仕事に行くんだって思うだけで死にたいと思わない?一日中やりたくもないことをやらされて、 それが何十年も続くなんて。別に生まれたくて生まれてきたわけでもないのに、なんで生きなきゃいけない?死にたくても死ぬのにも辛い思いをしないといけない。なんでそんなこと強制されないといけないの?生まれたことを後悔した。

 

まあ、自分の納得のいく仕事に就けなかったことは自分の努力不足で自業自得かもしれない。でも今まで向いてることを探すために何でもやってきたけど見つからなかった。だから向いてないことでも頑張ってきたのに。全てが無駄だった。

 

今は自分がどうしたいのか分からない。やりたいこともない。全て諦めて捨ててきて空っぽになった。実家暮らしだから生きてはいけるけど、別に生きる理由も意味も見つからないから今死んでもこの世に未練はない。だらだら生き伸びてるよりむしろ今のうちに死んだほうがいいんじゃないかとさえ思う。

 

こんな私が死にたいなんて言っても甘えとしか思われないと思う。実家は恵まれてる方だし。家庭に全く問題がないわけじゃないけど、母親は私がすることにいつも難色を示しながらも理解はある方だった。なんでも相談出来る友達はいるし、恋人もいる。

だからまだ自我は保てているんじゃないかと思う。じゃなかったら正気ではいられないと思う。

 

世の中には、もっと家庭環境が悪かったり、貧乏だったり、病気を持った人がたくさんいてそれでも頑張ってる。

自分の不幸は他人には分かるわけないけど、そういう人たちを見るたび自分は甘えてるだけだって分かるし、生きてるの恥ずかしくなる。何も言い訳できないんだよね。全て自分の努力不足なのは分かってるんだけど、もう疲れた。何も頑張れる気力がない。努力しても報われない。だって恵まれた環境でさえ全て台無しにしてしまう人間なんだよ。これ以上何が出来るって言うんだろうね。